わからないということに対する耐性

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私は、職場では何色にも染まらないタイプである、誰とでも公平に話をするし、誰に対しても敬語で話しをする。

恐らく恋人同士だったら、いつまでも距離が縮まらない二人みたいな感じなんだと思う。だから社内営業的なこともしないので、社内的に得することも少ないが、大きな敵を作ることもないような状態で働いている。

そのせいか私に相談しても他に漏れることもなく、社内的に立場が悪くこともないと思っているのか、社内的なことを相談されることがある。

実際、私の今の職場は、心の病気を患ってる人が多くて、そういう人は話を聞いて貰いたいのか、そういう人も相談を持ちかけてくることがある。

そんな人達の話を聞いてて思ったことがある、それは、年齢とともに、

「わからないということに対する耐性が落ちている」

ということだ。

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だいたい私の相談してくる人は、きっかけがある、重い責任の仕事を任された場合や、人事異動で新しい部署に異動になったとか、今までのルーチンの仕事をそのまま継続してる人は相談に来ない。

だから、そういう人は、わからないというが自分の周りに溢れてる状態だ、仕事のやり方にしてもそう、周りの人間関係にしてもそう。
そして、次に共通して出てくる言葉が、

「年齢的に新しいことがなかなか覚えられなくてね…」

と口にする。

その言葉を聞くと、年齢を重ねて行く過程で、ある程度の年齢以降は、わからないことや出来ないことは他に任せて、出来ることだけを積み上げて仕事をして来たんだろうな?と思う。

スポーツでも、勉強でも新しいことに始めるときの、スタートペダルは凄く重い、どんなに踏ん張っても動いてることさえ感じないこともある、でも、踏ん張り続ければ必ず動く。

わからないということは、そのスタートの状態で、結局はその重いペダルを踏み込むしか、不安を解消する手段はない状態。
そんな人達を見てると、どんな立場や年齢でも、わからないということに日常的に触れて向き合って耐性を付けておくことって大事だな…と本当に思う。

じゃなくても、出来ることだけをして生きていると、人は年齢ともに退化していくと思っている。

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